知識武装と虚偽体験の危険性

こころ

海外の方でも読んでもらえるよう、Google翻訳機能を付けています。

正しく表記されるかチェックしていたのですが、「龍樹会(りゅうじゅかい)」が「Ryukikai(りゅうきかい)」に翻訳されていて、なんとも残念な感じです。

あまり翻訳機能について詳しくはないのですが、これって修正できないんでしょうかね…。

ブログの内容に関しては概ね翻訳したらそんな感じかなぁとは思うのですが、龍樹会での護身術や身体動作はこちらの意図する部分が海外の方にきちんと伝わるのかは、正直微妙です。

やはり、言葉では伝えきれない・伝わりにくい・表現しにくいというものはたくさんあります。

〈ことばの波動と非言語的表現の記事はこちら


例えば他院での話ですが、「気功ってなんですか?」と聞かれて説明しても、意図する事が全く伝わらないな、という経験を何度もしたことがあります。

そもそも気功・身体動作においては院長の専門分野ですし、私のたどたどしい説明だと分かりにくいのかもしれないのですが、龍樹会での取り組みは、やはり現地で参加することにより正しく理解してもらう身体操作法だと考えています。

百聞は一見にしかず、です。


話は戻りますが、〈言語で伝えにくいことがある〉と言うと他者から「言葉で伝えることができないのなら、どうやって相手に正しく理解させるのか?」「言語化できないものは不明瞭なものだ」と、されがちです。

確かに勉学や人間の子どもの成長過程においても文字や言葉を通して習得しますし、言葉がないと知識を高めることができない部分が多く占めているのは、事実です。

もちろん視覚においても同等の事が言えますし、どんな職種でも仕事上に必要な知識を何も知らないと、話になりません。

しかし、あくまで比喩的表現ですが、あらゆる分野の専門家も〈現代人は知識を詰め込み過ぎて頭でっかちになっている〉と指摘しており、正にその通りなのです。

現代人は、何をするにしてもまず知識が先行し、そこから判断・行動をします。

かつての私が座右の銘にしたいと思っていた言葉は、イングランドの哲学者フランシス・ベーコンの格言「Knowledge is Power.(知識は知なり)」でした。

知識があればあらゆる想定外の事やイレギュラーに対応できる上に、自分が傷付いたり、しくじらないようにする盾にもなるからです。

10年ほど前の話ですが、私は一時期はセミナーを毎週末受講し、平日は仕事から帰ってきたら晩御飯を作業のように猛スピードで食べ終え、その後何冊も書物を読み漁っていました。普段の仕事や社会生活を送る上では特に必要のないような勉強に黙々と励んでいたのです。

ちょうど自己啓発本等が流行っていた時期でしたし、多忙でも自らを鼓舞することで自分を保ち、高まりを維持し続けていた気になっていたのですが、真の意識状態や真理からは掛け離れていたと思います。

その時に身に付けた知識の全てが無駄という訳ではないのですが、なぜ知識武装する必要があったのかは、当時は自分で全く気が付くことができませんでした。

私の恩師も似たような事を話していましたが、知識武装をすればする程、人間としての心の在り方を失い、本当に必要な真の気付きからは遠ざかっていくのです。


世の中に、知識という名の鎧で身体を覆い尽くしている人は、案外多いものです。

では、なぜ知らず知らずのうちに知識武装をしてしまうのでしょうか?

実はコンプレックスが強ければ強いほど、知識武装をしてしまう傾向にあります。

これは自分に自信がない人ほど、何故かすごく偉そうだったり、強気であるのと同等です。

何より人間関係においては知識が豊富であればあるほど、相手より優位に立てるという点から起きる心理的行動のひとつでもあります。

私は単に知識武装そのものが悪いと言っている訳ではなく、そういった方は〈なぜ知識武装するのか〉を客観視できていないケースが多く、内省できずに外部へ向ける意識ベクトルが働き過ぎているという点を伝えたいのです。

得手不得手はあれど、言語や記憶力に問題が無い限り、どの分野においても勉強をしたらある程度の知識は身につくと私は思っています。

心の在り方に関しての理解は、知識のみでは絶対に不可能だと断言できます。


「何事も、体験するのが1番早い」とよく言うように、自らの実体験によって理解が深まるとも言われています。しかし、実際にはそうでもないのでは?と最近気が付きました。

実は体験が理解を深める最善で最速の手段だと私もずっと思っていたのですが、ある時から疑念を抱くようになりました。


何故なら体験を以てしても真に理解ができない場合もあり、その体験自体が〈虚偽体験〉である可能性も否定できないからです。

虚偽体験は、自らが望む世界や夢、理想、記憶、その他雑多なものが入り混じった感情の結果生じる体験を記憶として残していること、です。

無いものをあたかも経験したかのように記憶し、体験したつもりになっているのです。簡単に言えば、ウソの記憶と体験です。

本人の自覚がない虚偽体験は怖いものです。

人は自らの望むもの、理想や夢を追い求めた結果、自分が◯◯でありたい、という願望を見たり現実にしたい生き物ですから、自然とそうなってしまうのも無理はないのですが、虚偽体験が積み重なると自分自身が本当に求めているものを見失います。

常に内省し、内なる心に目を向けなければいけないのです。

だからこそ、龍樹会のような場は現代において必要不可欠だと感じています。お世辞や誇張ではなく、実際に参加してみて第三者目線で見てもそのように思います。

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