別宅おうちご飯の思い出と心の友

こころ

佐渡別宅こと、友人宅で作ってくれるご飯がとても美味しくて、遊びに行った時によくご馳走になっていました。

お世辞ではなく、心から「美味しい!」と思えるご飯なのです。

当時の私は、テキトーすぎる手抜き料理や謎料理ばかり作っていたので、女子力が総合的にズバ抜けて高い友人を、本当に尊敬していました。

仕事終わりに、いつも別宅にお邪魔して夜遅くまで語り明かしたりと、良い思い出ばかりです。


「心の友が3人いると良い」と、恩師がよく話していました。

どういう事かというと、何か判断を誤りそうだったり道を踏み外しそうになった時に、心の友が最低でも3人はいると間違った方向へ進みにくい、という主旨の表現です。

心の友とは、損得勘定抜きに、互いに支えあえる友人でもあります。

そういった友人とは、頻繁にシンクロニシティ現象が起きやすいです。

例えば、友人にLINEしようとスマホを手に取ったらちょうど連絡が来たり、困っている時に相談をしてもいないのに助け舟を出してくれたり…そんな経験は、皆さんもあるのではないでしょうか?


人生は平坦ではなく、楽しいこともあれば嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、実に様々な出来事が起こります。

今でこそお互い住んでいる距離は離れてはいますが、常に応援してくれているのが伝わりますし、もちろん地元の親しい友人や身の回りの仲間たちからの気持ちは、いつもよく伝わります。


〈こころの在り方〉について院長も龍樹会で何度も話していますが、たとえ全てを分かりあうことができなかったとしても、「相手を理解しようとする心と姿勢が大切」というのには共感しますし、本当にその通りだと常々思います。

心の友は、もちろん時には厳しい言葉で助言をしてくれますが、比較的何事にも前向き姿勢で接してくれる事が多いです。

一見すると、心の友は依存関係に見えなくもないのですが、決してそうではありません。

〈依存のすべてがマイナス〉という訳ではありませんが、依存においては現実世界での満たされない欲求等の矛先を別の行動・物質・人で置き換えているだけで、心の友の関係性とは似て非なるものです。


世の中には、人間関係を損益勘定の上でしか構築できない人もいますし、経営者には特に多いです。

「ビジネスが絡むと、綺麗事は言っていられない」という姿勢なのは分からなくもないのですが、そういう方は仕事が上手くいかなくなった時に、「身近に一体どれだけの心の友がいて、助けてくれるのか?」ということは想定にはありません。

つまり、窮地に立たされた時に頼れる真の心の友という存在が居ない場合は、困窮するパターンもあるということです。


当たり前ですが、人間は1人では生きていけません。支え合って生きていくのが、人間です。

しかし極論を言えば、互いに理解しあおうと歩む姿勢がなければ、人間ですらありません。

少々厳しいようにも聞こえますが、精神分野でも現代人の情動は動物より酷い、という旨の言い回しすらありますから、あながち間違ってもいないのでしょう。(なんだか動物に失礼な気もしますが)


「心の友がすぐに欲しい!」と求めたとしても、すぐにできるものでもないですし、お互いの理解しようという気持ちや共有する出来事などがあって初めて成立するものです。

現状で心の友が身近にいらっしゃるなら、言葉や態度には出さずとも、心の中で感謝してみてはいかがでしょう。

私は、直接会った時に言う時もありますが、いつも心の中でありがとうと呟いています。

かなり前に、1日何回もありがとうと言いましょう、というのが流行りましたが、喜びや感謝の波動が事象好転と関係するという点と結びつければ、納得です。

〜あとがき〜

関西圏に来て結構カルチャーショックだったのですが、小さな事でもどんなことに対してでも「ありがとう」と言う点でした。

「私なら、そんな事でいちいちお礼なんて言わないけどな」と思っていた事でも、周囲の家族間、職場の先輩後輩、友知人誰もが「ありがとう」を常々口にするので、ありがとうが文化的に身に付いているのだな、と実感しました。

これは凄く良い習慣だと思いますし、クリニック勤務時に小さなお子さんでも「ありがとうございました〜」と言う子が本当に多くて、衝撃的でした。

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