実践における顕現差と保気

東洋哲学

「何名かが同じように実践を積んでも、なぜ結果に大きく違いが生じるのか?」 

これをずっと疑問に感じながら過ごしてきました。

あくまで気学の話なのですが、これは他の分野でも共通することです。

もちろん、環境や歩んできた人生の土台が人それぞれ違いますから、差が出るのは当然のことです。それでも、この部分に関して長年疑問に思いながら東洋哲学的実践に取り組んできました。

そして、先日の院長の気功についての話で、その理由について心底納得しました。

実践において自らが受けた気を保つ事を「保気」と言います。物事を好転させるように働く気を得て保つ、という意味でも、この「保気」は非常に重要です。

しかし保気をしているはずなのに、受けた気が周りに流れるような現象を、これまで私は何度も経験しています。

それが決して駄目なことではないのですが、個人差がかなりあるように感じていました。

あまり良い例えではないのですが、あえてわかりやすい事例をあげます。

たとえば私が宝くじを買ったとして、結果的に1枚も当たらず、その代わりに何故か周りの友人が小額ながらもどんどん当選する、というような現象です。

似たような事も、実際によく経験したり周囲から聞く事もあります。

これは一体どういうことなのかと考えていた時に院長に尋ねると、「大気功・小気功と同じで、意識の持ち方で全ての意味合いが変わってくる。そうすると、〈気が漏れる〉〈気が充満し、溢れ出す〉という現象は一見同じように見えるけど、全く違うもの。」と、教えてくれました。

確かに、客観的に観れば同じように気が外部へ出ていくという現象でも、両者は似て非なるもの、ということになります。

結果的に、私の経験したことがどちらだったのかわかりませんが、「意識の持ち方で顕現差が大きく出る」ということが、これでハッキリと分かりました。

鍼灸では気を養う事を「補気」と言うので、この場合の保気とはまた少し意味合いが変わってくるようです。

精神世界の分野では「自分はあくまでパイプのような道管にすぎない。エネルギーの通り道となっているだけ」とよく例えとして話されますが、鍼灸師の先生でも全く同じ事を話されている方も多いです。

今回はエネルギー的な部分の話を、抽象的な表現で書いたので余計に分かりにくいと思いますが、ただ何においても「意識をどの方向へ向けるか」は非常に大切な事であって、龍樹会でも院長が毎回のように話されていることでもあります。

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